アブラアン-ルイ・ブレゲはヌーシャテルで生まれ、職人としての人生の大半をパリで過ごしました。彼は時計製造に関するあらゆる事項を学び、彼の多岐にわたる重要な発明の数々はこのパリを舞台に開花しました。
彼のキャリアは、一連の画期的な機構の発明によって幕を開けました。自動巻機構の開発に成功した「ペルペチュエル」時計や、ゴングを採用したリピーターウォッチ、テンプのテン真を衝撃から守る初の機構「パラシュート」などです。
ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、ブレゲの初期の愛好家でした。ブレゲの工房から誕生する時計には、最新の改良が加えられた独創的なムーブメントが組み込まれており、そこには彼が完成させたレバーやルビー・シリンダー脱進機が用いられていました。 フランス革命が勃発すると、アブラアン-ルイ・ブレゲは革命の騒乱から逃れ、スイスで避難生活を送りました。「ブレゲひげゼンマイ」、ナポレオンに販売したブレゲ初の携帯用置時計「キャリッジ・クロック」、「パンデュール・サンパティーク(シンパティック・クロック)」とそれに付随する腕時計、「モントレ・ア・タクト」、そして1801年に特許を取得する「トゥールビヨン」など、その間に発明した多くの機構を携えてパリへと戻りました。
ブレゲはやがて、科学者や軍人、金融家や外交官など当時のエリートたちにとって欠かすことのできない時計師になりました。彼のタイムピースは、ヨーロッパのあらゆる宮廷でも賞賛を浴びました。ブレゲは、最も名声を誇る顧客たちのために特別の時計を製作しました。ナポリ王妃のカロリーヌ・ミュラのために1810年に製作された、時計の進化を2世紀早めることになる最も注目すべき時計、すなわち初の腕時計もそのひとつです。時計製造技術に関する彼の計り知れない貢献を称えて、さまざまな名誉が授けられました。経度委員会のメンバーに選ばれ、海軍のクロノメーター製造者に任命された彼は、ついで科学アカデミーの会員になり、ルイ18世からレジオン・ドヌール勲章を授かるまでになります。
アブラアン-ルイ・ブレゲが1823年にこの世を去ったとき、科学と芸術の両方において時計の世界に偉大な革命をもたらしたこの人物の死を誰もが悼みました。
現在のブレゲは、かつてないほどに革新的な時計を開発する力を蓄え、それがブランドに大きな活力をもたらしています。ブレゲの独創的な時計づくりや天才的な発想が時と共に色褪せることはけっしてありません。それどころか、故ニコラス G. ハイエックと現社長マーク A. ハイエックの精力的な采配のもとで、ますますブレゲの革新が際立ってきました。わずか8年間で取得した特許の数は、創業者が成し遂げた発明の数をはるかに凌いでいるのです。